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【推しゲーを語ろう】ひぐらしの新アニメが発表されたぞ!『うみねこのなく頃に』を読んで衝撃に備えよう!


▼はじめに


 ※当記事は『ひぐらしのなく頃に』のネタバレを含みます。


 こんにちは、こたつです。


 皆様、夏は好きですか?え、好き?好きですよね、もちろん。私も好きですよ。


 カッと照り付ける太陽、アスファルトの上で踊る陽炎、セミの大合唱、頭の中には久石譲の『Summer』なんかも流れちゃったりして。ざあっと一陣の風が吹き抜けたかと思うと、入道雲をバックに麦わら帽子を被った白いワンピースの美少女が微笑んでいる……。やはり夏がもっとも優れた季節であることに疑いないでしょう。

 

 『ひぐらしのなく頃に』は言うまでもなく、そんな夏の魅力をぎゅっと凝縮させたノベルゲームの金字塔です。私のような若輩者からするともはや古典の域に入ります。


 そんな『ひぐらしのなく頃に』公式からなんと!新アニメの発表が来ましたね!


6月の下旬に発表とは粋なことをする

 しかし、しかしですよ。同シリーズの『うみねこのなく頃に』を忘れてもらっちゃあ困る!案の定「うみねこアニメの続編はどこ…?」みたいな声もTLにはちらほらあります。



 わ か る。


 

 そんなわけで、前置きが長くなりましたが、ひぐらし新作をフックに『うみねこのなく頃に』を語っていこうというわけです。単体でも十分に面白い作品ですが、『ひぐらしのなく頃に』を前提に置いて鑑賞すると何倍にも楽しめる、そういうことをお伝えしたいわけですね。


 なに?『ひぐらし』も見たことがない?「嘘だッ!」と「富竹フラッシュ」しか知らない?……まあいいでしょう。

私もつい最近まで見たことがなかったし

 そんな方にもお読みいただけるように、まずは『ひぐらしのなく頃に』とはどういう作品であったかを振り返っていきます。


 なお、『ひぐらしのなく頃に』、『うみねこのなく頃に』ともに核心的なネタバレは避けるようにしますが、その他のネタバレは多分に含みますのでご了承ください。

 

▼ひぐらしが成したこと、至らなかったこと


 『ひぐらしのなく頃に』は雛見沢という小さな村に中学2年生の少年、前原圭一が都会から引っ越してくるところから物語が始まります。小学校と中学校合わせて1つのクラスしかなく、その校舎も営林署を間借りしているような、何もない田舎。しかし、仲の良いクラスメイト──かけがえのない仲間と出会い、圭一は輝かしい生活をおくるようになります。……というのも束の間、過去にバラバラ殺人があった、という話を聞いてしまってからその穏やかな日常は次第に変貌してゆきます。


 物語の後半では圭一の仲間の一人である少女古手梨花が、真の主人公であることが明らかになります。彼女は何度もタイムリープ(厳密には並行世界の移動)を繰り返し、仲間たちが惨劇に巻き込まれない未来を模索していたのです。


 その解決方法は、作中の言葉を借りれば「誰でも知っている簡単なもの」でした。仲間を信じること、困ったことがあったら相談すること──。圭一をはじめとする仲間たちが自ら疑心暗鬼を打ち破り、信じ合うことで、古手梨花は永遠に続くかと思われた昭和58年6月の袋小路を抜け出すことに成功します。そして、長い物語は「私たちは望んだ数だけ幸せになれるから」という旨のメッセージをもって幕を引くのです。

 

 『ひぐらしのなく頃に』の魅力は、雛見沢という没入感溢れる舞台、日常と惨劇の落差、緻密な心情描写、『you』などに代表される楽曲、ハッピーエンドのカタルシスなどと枚挙にいとまがありません。


 私の愛読書である『ゲーム的リアリズムの誕生』(東浩紀,2007)には『ひぐらしのなく頃に』の批評が綴られています。作者と読者の関係に着目する環境的分析を通じて、従来の自然主義的な観点では幼稚でご都合主義的で非現実的と言わざるを得ない物語がなぜ二〇〇〇年代を生きたオタクの支持を得たのかを明らかにしているのです。


 東氏によれば、それはフィクション内のキャラクターが現実を生きる読者に語りかけてきていることを錯覚させるような文体に代表される、感情のメタ物語的な詐術によるものです。「私たちは望んだ数だけ幸せになれるから」というメッセージは、作者である竜騎士07氏が二〇〇〇年代のオタクの生を力強く肯定しているなにより顕著な例だと読み取れます。


 東氏はその構造を明らかにした上で、以下のように述べてその章を閉じています。


 私たちは、このような複雑な手続きを経てはじめて、竜騎士が最後に記した「もっともっと、私たちは幸せになれるから」「望んだ数だけ、幸せになれるから」という言葉に対して、物語のご都合主義とはまったく別の水準で、それはあまりにも非現実的で多幸症的なのではないか、と疑義を呈することができるだろう。 (『ゲーム的リアリズムの誕生』,東浩紀,2007,p246)

 

 『ひぐらしのなく頃に』は多くのエンタメ作品がそうであるように、非現実的でご都合主義的な物語です。しかし、東氏の分析によれば(令和を生きる皆様にはごく当然なことかと存じますが)この物語は読者に対する直接的なメッセージを秘めているのです。ゆえに、この作品は、現実の世界を生きている私たちが受けとるメッセージというレベルでの分析が可能になります。

 

 そう考えれば「あまりにも非現実的で多幸症的」と評されるのは、なるほどその通りかもしれません。私たちの生きる現実世界で「無条件に仲間を信じる」ことのハードルは今更言及するまでもないでしょう。“圭一の仲間”に相当するような対象が、果たして私たちにもいるでしょうか?どうすれば無条件に信じられる対象だと証明できるでしょうか?そのような対象がいたとして、彼らはいつでも傍にいてくれるとは限りません。私たちは通常、多様で多彩なコミュニティに幾つも属して生きており、物理的、社会的に助けを求められないことも多々あるでしょう。


 簡単にまとめると、『ひぐらしのなく頃に』は「信じることの素晴らしさ」を説くことには成功したものの、具体的な検討に至れていない作品だと言えます。


 それは『ひぐらしのなく頃に』が劣っているということを意味するわけではありません。特に、ホラーミステリーを用いた手法は本当に素晴らしい。過去に私が言語化したものがあるので、こちらも置いておきますね。




▼うみねこの凄まじさ


 ……ついつい熱く語ってしまいましたが、この記事は『うみねこのなく頃に』を語るというものでした。ここからが本番です。しかし、先ほど『ひぐらしのなく頃に』でやったようにその全貌を説明した上で批評するということは致しません。理由の一つは、この記事のメインターゲットは『ひぐらしのなく頃に』を履修済みであり、『うみねこのなく頃に』未履修の方々であること。特に後半の展開に関してはなるべくネタバレしないようにしたいのです。二つ目はぶっちゃけた話、『うみねこのなく頃に』の全貌の構造が複雑すぎて説明が難しいことです。今なお考察されている作品ですよ?ニワカファンの私には無理だって!


 『うみねこのなく頃に』は合計で8つのエピソードから成り立ちますが、その最初のエピソード──『episode1 - Legend of the golden witch』の概要、およびその次のエピソード『episode2 - Turn of the golden witch』のごく最初の方さえ語ってしまえば、興味を持っていただくことは容易であると考えます。なぜなら、私はそこでドはまりしたので。しかし、その感動に至るには先程までの『ひぐらしのなく頃に』の議論が必要というわけです。


 『うみねこのなく頃に episode1 - Legend of the golden witch』は1986年10月4~5日の伊豆諸島の六軒島──大富豪の右代宮(うしろみや)家が領有する私的な島──が主な舞台となります。年に一度の親族会議のため、主人公の右代宮戦人(うしろみやばとら)を始めとした親族たちが島に訪れるところから物語は始まります。会議の議題は余命あと僅かと宣告されている当主、金蔵の財産分割問題。戦人にとっては大人の難しい問題はさておき、従兄弟たちと久しぶりの再会を楽しめる旅行となるはずでした。


 しかし、台風によって島には親族と使用人合わせて18人が閉じ込められることになります。電話も無線も故障し、まさしく嵐の山荘状態。そして彼らを襲う狂気の大量殺人!初めは互いを疑いあっていた人間たちですが、到底人間が不可能とも思える殺人劇が続くにつれ、これは魔女ベアトリーチェの仕業だと信じるようになります。六軒島には金蔵に巨額の富をもたらした黄金の魔女がいるという伝説があるのです。島に19人目の存在である魔女がいれば、荒唐無稽な殺人トリックにも説明がつくというものです。

 

 親族たちを疑いたくないと叫ぶ戦人はしかし、魔女の仕業だという考えも唾棄します。そんなことはあっていいはずがない。現実に魔女なんていない、それは思考停止だと言う戦人。


 この時点で凄く面白くないですか?


 ええ、単に物語だけを追うならば現状は典型的なミステリー作品に過ぎません。しかも、まだトリックも何も明かされていません。しかし、これが『ひぐらしのなく頃に』と同じシリーズだと考えると、途端に重層的な意味を帯びてきます。


 思い出してほしいのです。『ひぐらし』でも猟奇的な殺人事件が起こるのは共通していますが、そのアプローチが真逆であることに。圭一たちは仲間を信じることによって幸せな未来を掴みました。一方で、戦人はそれを思考停止だとして、自らの親族が犯人である可能性を決して棄てません。


 『うみねこのなく頃に』は東氏が「あまりにも非現実的で多幸症的」と評した『ひぐらしのなく頃に』のアンチテーゼであり、同時に竜騎士07氏が語り切れなかった部分に対するアンサーでもある。私はそのように考えます。

 

 物語に戻りましょう。戦人たちは結局行方不明扱いとなります。うみねこのなく頃に、生き残れた者はなし。そのように綴られてEP1は終幕します。


 ……というとでも思ったか!?


 本編終了後、「Tea Party」というシナリオが各エピソード終了後に解放されます。その「Tea Party」は物語のキャラクターたちがメタ的視点で物語を振り返るものとなっています。『ひぐらし』の「お疲れ様会」のようなものです。……が!なんとここで黄金の魔女ベアトリーチェそのひとが戦人たちの前に姿を現してしまうのです。嗚呼、この物語は魔女の幻想を人間の推理で打ち砕くものではなかったのか!魔女に姿を現されてしまえば19人目がいたことと同義ではないか!


本当はスクショを貼りたいけど、steam版の転載は認められてないらしいので断念

 しかし、なおもその存在を信じない戦人。ベアトリーチェは「久しぶりに愉快な人間に出会ったものよ」と笑いながら、自らの存在を認めさせるためにこの島で起きたミステリー殺人の推理を要求します。そのトリックを説明できなければ、19人目である自分の存在、魔法の存在を認めろ、そう迫るわけです。


 これで、今度こそEP1は終幕を迎えます。



▼魔女のチェス盤


 そしてはじまる『うみねこのなく頃に episode2 - Turn of the golden witch』。やはり舞台は1986年の六軒島、なのですが。EP1では描かれなかった事件までの前日譚や、同じ出来事が異なるキャラクターの視点から描かれます。


 何より異なるのは、その物語を俯瞰的にベアトリーチェと戦人が眺めているシーンが挿入されることです。いえ、眺めているのではありません。これはゲーム。チェス盤の上で駒を取り合うゲームです。ベアトリーチェは自らの能力で再び事件を戦人に見せつけ、推理を迫ります。しかし、このエピソードの副題はTurn of the golden witch(魔女の手番)。大筋は同じですが、誰がどのように殺されるか、それはEP1とはまるで異なる変遷をたどります。


 第一の事件は礼拝堂の密室殺人事件。戦人の親たち6名が猟奇的に殺害されてしまいました。これに対して、メタ次元の戦人とベアトリーチェは戦いを、いわば“魔女のチェス盤”の上で繰り広げるのです。


 戦人は情報不足により推理不可能と苦言を呈します。例えば、密室のように見えたとしても誰にも発見できていない隠し扉があれば、推理することは不可能だろうと言うわけです。


 そこで、ベアトリーチェは新しいルールを提案します。それは「赤き真実」。ゲームの盤面を構築している魔女は、当然事件の真相を知っています。その魔女が赤字で宣言する事実は、証拠を示して立証する義務を負いません。仮にトリックが魔女の魔法によるものだとしたら、戦人の眼の前で魔法を使う以外に証明ができず、それはゲームとして成り立たないからです。


 この赤き真実によって、ベアトリーチェは密室の定義を確認し、再び戦人に推理を迫ります。魔女だけが一方的に使える特殊能力、万事休すかと思われましたが……。


 戦人はそれが攻勢に転じられる契機だと気づきます。誰も触れられない鍵の存在が密室を解き明かすカギだと気づいたわけです。そこで自分の推理を語り、ベアトリーチェに赤字での復唱を要求します。ベアトリーチェが赤字で復唱すれば、その推理は正しいことが確実になり、反論も復唱もできなければ、その推理を真実だと認めたのも同義です。


 この推理によって、戦人はその密室の攻防において、ベアトリーチェに(一時的な)リザインを認めさせることに成功します。『うみねこのなく頃に』はこのようにして数多くのゲーム盤で人間である戦人と魔女のベアトリーチェの攻防を描きます。EP5からの展開編においてはまた異なる物語が紡がれるのですが……ここでは割愛。


 彼らの武器は「赤き真実」にとどまらず、エピソードが進むにつれ「青き真実」「黄金の真実」「紫の発言」「ノックスの十戒」「ヴァン・ダインの二十則」などなど面白い概念が登場しますが、これまた割愛。


 実際に島には何人いたのか、「黄金の魔女ベアトリーチェ」とは何者なのか、なぜベアトリーチェは戦人に推理を要求するのか、戦人の抱えた秘密とは……。殺人のトリック以外にも散りばめられた様々な謎に、ぜひ皆様も挑戦してみてください。


 さて、前提の説明が随分長くなってしまいました。魔女のチェス盤、『うみねこのなく頃に』を語る上で不可欠ではあるのですが、私が本当に語りたいのはここからです。それは戦人の行う「魔女の不在の証明」という行為が、現実世界を生きる私たちが「信じるとは何か」を考える上で極めて重要だと考えるからです。


 戦人が行っているのは犯人を見つけることではありません。犯人が魔女とは断定できないこと、魔女が存在するとは言えないことの証明です。

 

 この思考プロセスは、誰もが情報を発信できるうえに、生成AIが台頭している現代を生きる私たちにとって、大事なことだと痛切に感じます。むろん、それはSNSに限らず、あらゆる情報やコミュニケーションに対して同じことが言えるでしょう。


 あの人、悪いことして捕まったらしいよ

──その情報は真実だろうか。そう誤認されている可能性はないだろうか?


 アイツ、俺の悪口言っててさあ

──厳密にはどのような発話だったのだろうか。害意や敵意があると断定できるだろうか?


 戦人が「魔女の仕業」という結論に飛びつかず、泥臭く他の可能性を模索し続けたのと同様に、私たちも受け取った情報の真偽をすぐに白黒つける必要は必ずしもありません。大事なのは他の可能性を考えること。それはまさしく想像力と呼ぶべきものです。


 デカルトを引用するまでもなく、私たちの世界に真実だと断定できることはそう多くありません。私も『想念神格RPGカムイガタリ』の前書きで触れたことがあります。


それが宗教という名のつくものでなくても、私たちは信じるという行為抜きには生きていくことができません。(『想念神格RPGカムイガタリ』,上の空文庫,2025,p1)

 では何を信じるのか。その答えはここにあったのです。想像力を働かせ、あらゆる可能性を考えること。『うみねこのなく頃に』を最後までプレイした諸兄諸姉は、この思考プロセスこそ真理亜が成し遂げ、縁寿が目指した境地であるという点にご同意いただけることでしょう。


 こうして考えると『ひぐらしのなく頃に』で竜騎士07氏が読者に伝えようとした「信じることで幸せになる」というメッセージもまた違った見え方がしてくるのではないでしょうか。私が『うみねこのなく頃に』を絶賛する理由がここに詰まっているのです。


▼今こそ六軒島へ


 まとめに入りましょう。『うみねこのなく頃に』は『ひぐらしのなく頃に』と同一のシリーズであり、『ひぐらしのなく頃に』で捉えきれなかった問題に鮮やかな解答を出している、と読み取ることができます。


 そして、ひぐらし新アニメが発表された今こそ、私はうみねこに触れるべきだと考えます。


 新アニメといえば2020年の『ひぐらしのなく頃に 業』、21年の『卒』は(『うみねこのなく頃に』と同じく)賛否両論だったようです。様々な理由はありますが、一部には『うみねこのなく頃に』の要素が入っている、それを知らなければ楽しめないというものがありました。


 その他多くの批判意見に同意はしますが、私は好きですよ。シャンデリア百合心中を見て竜騎士07氏は改めて天才だと思いました。納得できなかった方は『巡』を読もう!それと公式サイトから公式アンソロジーが読めるぞ!とてもいい。

 しかし、それは当然なのです。くどいようですが、これらは同じシリーズ。一部の世界設定やキャラクターを共有し、長い歴史の上に紡ぎあげられてきた作品群です。そして、単なる物語上の繋がりに以上に、竜騎士07氏の思考の軌跡がそこに残されています。


旧アニメすら見なくても楽しめるという誇大広告が悪い、それはそう。

 もちろん、単体で楽しむことも不可能ではないでしょうが……『ひぐらしのなく頃に』の新作を十二分に楽しみたいならば、『うみねこのなく頃に』に触れておくことはきっと損ではないはずです。作品の単位を超えての読解、分析が如何に魅力的であるかはこの記事で語り尽くした、そう思っています。


 随分長くなってしまいましたが、ここで筆を置きたいと思います。お読みくださりありがとうございました。


 それではまた、なにかのく頃に。


▼追伸

 キコニアはいつなきますか?

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